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大阪地方裁判所 昭和49年(ワ)879号 判決 1980年2月18日

原告 奥村宏子

右訴訟代理人弁護士 藤田剛

同 浦功

同 丸山哲男

同 柴田信夫

同 畑村悦雄

同 西川雅偉

同 吉澤雅子

被告 大阪府

右代表者同知事 岸昌

右訴訟代理人弁護士 村田太郎

右指定代理人 杉山芳郎

<ほか三名>

主文

一  被告は原告に対し、金一三二万一二九五円及び内金一二二万一二九五円に対する昭和五三年四月一日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その一を原告の、その二を被告の各負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

1  被告は原告に対し、金二九四万二五九〇円及び内金二六四万二五九〇円に対する昭和五三年四月一日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  第1項について仮執行の宣言。

二  被告

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告の経歴と雇用関係

原告(昭和二〇年四月三日生)は、昭和四三年三月京都女子大学を卒業後、同四四年一一月一七日被告に採用され、衛生部予防課兼府立中宮病院に勤務し、同四五年四月一日府立中宮病院松心園(以下、松心園という)に配転となり、松心園が正式開園した同年七月一日以降生活指導員として外来の自閉症児の治療に従事してきた。

2  原告の作業内容、労働条件等

松心園は、主として一歳から中学校年齢児までの自閉症児の治療を目的とするものであるが、自閉症児は「動き回る重障児」ともいわれ、極端に対人関係を断ち、他人のいうことを聞かず、非常に指導性の困難な点に特徴があり、その治療方法として遊戯療法(患児とプレイするなどして接触し、その行動を観察分析することによって集団生活に適合できるように指導する治療方法)が採用され、患児の要求を可能な限り受容することが重視されてきた結果、次のような過重な業務を余儀なくされ、苛酷な労働条件のもとに勤務することとなった。

(一) 右遊戯療法に際しては、患児と常時視線を合わせ、かつ、身体的接触を保つことが要求されることから、原告は、中腰又は坐位の無理な作業姿勢を長時間とり続けること及び患児の敏捷な動きに合わせるため、立ち坐りを頻繁にすることを強いられた。

(二) 患児を背負い、抱き上げ、肩車などをすることが重要な治療方法の一つであったことから、常時、右のような作業をなし不自然な作業姿勢をとることが要求されていたが、時々、背負っている患児が急に暴れだすこともあり、原告の頸肩腕部、腰部に急激な負担がかかることも多かった。

しかも、患児の中には、屋内の遊戯室で遊ぶことを極端に嫌い、屋外で遊ぶことを要求する者もあり、その場合には、中宮病院の鳥小屋とか同病院の入口付近までの長い距離を患児を抱いたり、背負って行くこともあり、そのうえ、同病院の正門横の土手に上がり、そこから飛び下り原告が体をねじるようにして受け止めることを何回も要求する患児もあった。更に、一〇歳で体重三五キログラム位の重い患児もあり、その患児の遊戯は、原告の腰部などの負担を加重し、その疲労を倍加した。

(三) 患児と一緒にトランポリン、ブランコ、追っかけっこ、斜面の昇降などの遊戯を一時間余りにわたって継続し、かつ、その間、患児の敏捷な動作に合わせるため、原告は、常時、精神的緊張と中腰姿勢などの不自然な作業姿勢を強いられた。

しかも、右遊戯療法を行うのは、本館二階の遊戯室、治療室に限定されたものではなく、患児の中には、屋内では泣き叫ぶ者もあり、大多数の患児もまた屋外での遊戯を好むため、必然的に松心園のグランド、その他同園付近すべてが「遊戯室」「治療室」となったものであり、したがって、原告の作業量も必然的に加重され、屋外、病棟及び南庭の方から本館二階まで患児を背負ったり、玩具類を運搬することを余儀なくされた。また、中宮病院前の道路は、交通が激しいため、原告の精神的緊張感は極度に加重された。

(四) 松心園の建物の構造が変則五階建のため、本館一階の待合室で患児と会い、嫌がる患児を連れて遊戯室へ行くには、患児を背負って階段を昇らざるを得ず、その他玩具類の運搬、患児の連れ戻しのため、不自然な姿勢のまま、一日十数回も階段の昇降をせざるを得なかった。

加えて、松心園においては、廊下と各部屋の間には、必ず鉄扉が設けられ、かつ、鍵が常時ロックされているため、原告は、患児を背負ったまま高さ七四センチメートルの鍵穴(通常より低い位置にある)に鍵をさし込み、鉄扉を開閉せざるを得なかったので、それだけ腰部などへの負担は加重された。

(五) 原告の作業内容は右のごとく激務であったが、それに加え、原告一人の担当患児数が多過ぎたため、原告は休憩時間さえ満足にとれない状態で右のような作業を継続することを余儀なくされた結果、原告の疲労は蓄積され、倍加された。

(六) 原告は、右のような作業のうえに、自閉症児らの治療経過の記録整理(各患児について、遊戯療法が行われる毎に《証拠省略》のような記録を作成することが要求されていた)並びに全体会議、チーム会議、カンファレンス研修会の準備のため、連日、夜一〇時過ぎまで残業することや自宅で深夜まで作業することを余儀なくされた。

原告は、以上のような、長時間、不自然な作業姿勢を持続し、かつ、立ち坐りが多く、腰部、頸肩腕部に極端な負担のかかる業務を連日にわたり実施していた。加えて、原告は、右業務中、患児から一時も眼をはなすことができないという状態の長時間の精神的緊張を強いられ、時間外には記録の整理などに忙殺された結果、原告には、日々、肉体的、精神的、神経的疲労が蓄積された。

3  原告の症状と治療過程等

(一) 原告は、右のような勤務が続くうち、昭和四五年九月頃から頸肩腕部に異常を感じ、更に、体全体の疲労感が抜けず、同年一〇月初め頃には腰痛を感ずるようになり、患児と遊戯した翌日には疲労感と頸肩腕部の痛み、腰痛が増大した。

そこで、昭和四六年一月二二日、星ヶ丘厚生年金病院整形外科において診察を受けた結果、根性腰痛症と診断され、約一か月間の入院加療を指示されたので、同月三〇日から同年二月二五日まで入院治療を受け、引続き同年三月一四日まで自宅で静養しながら通院治療を受けた(以下、第一次欠勤という)。

(二) 原告は、右同月一五日から再び出勤した。これは、腰痛症が完治したからではなく、ある程度症状が軽快したため勤務に就いたもので、主治医から軽作業から始めるようにと注意されていたのである。そこで、原告は加藤園長にその旨申出たが、「軽作業などない、あなたの体はこの施設に合わないのだから辞めなさい、半人前の人にできる仕事は松心園にはない、給料分働いてもらわなければ困る」と拒否されたため、テスト、遊戯療法などに従事していた(尤も、他の生活指導員より少なかった)が、右園長から、しばしば、「辞めるか、一人前の仕事をするか」と迫られたので、やむなく、同年七月頃から生活指導員四名で八名の患児と遊戯するBグループの集団遊戯療法に参加して入院前とほぼ同じ作業に従事することとなり、昭和四七年三月二八日まで継続した。

原告は、その間、昭和四六年五月頃から鍼灸治療を受け、腰痛の予防体操を続け、症状は一進一退の状態であったが、同年一一月頃から再び悪化し始め、体中が重苦しく感ずる日が多くなり、頭痛、腹痛、生理痛に悩まされる日が続いた。更に、同年一二月多忙のため鍼灸治療を打切ったこともあって症状は急激に悪化し、毎朝腰痛で目が覚め、寒い朝方はエビ状でしか就寝できないような状態が続き、昭和四七年二月に入ると、寝つきも悪くなり肩こり感がきつく、首筋にしこりを感じ、常時偏頭痛がして、時々目がくらむような状態となった。そして、足痛、腰痛のみでなく、肩から腕にかけてもしびれ感があり、手に持っている物を落したり、手がふるえて字も書けないようになった。

(三) そこで、原告は、同年三月二二日関西医科大学の診察を受けたところ、腰痛兼頸肩腕症候群(疲労蓄積)と診断され、更に、同大学の細川医師の指示に基づき、同月三一日吉田外科・整形外科医院(以下、吉田医院という)の吉田正和医師の診察を受けた結果、(筋・神経疲労性)頸肩腕症候群兼根性腰痛症により約二か月間の休業加療を要すると診断されたので、被告の承諾を得て同年四月一日から欠勤し、右吉田医院及び星ヶ丘厚生年金病院において治療を受けることとなった(以下、昭和四八年二月七日までの欠勤を第二次欠勤という)。尤も、同年六月ないし八月に一時小康を得たので出勤したこともあったが、症状が悪化したので再び欠勤せざるを得なかった。

原告は、同年一〇月末までは右病院などで治療を受けたり、千葉県の実姉のもとに身を寄せたりして(自炊もできず、日常生活にも支障をきたしていた)静養していたが、症状が一向に良くならないので、同年一一月八日頃から郷里の鳥取県に帰り、温泉病院で通院治療を続けた結果、翌四八年二月初め頃には全身の痛みは相当減少した。

(四) 原告は、同年二月八日から出勤し、被告の承認を得て、昭和四九年九月一〇日までは半日勤務で、同月一一日から同五〇年五月三一日までは午後三時までの勤務で、同年六月一日以降は平常勤務で電話番、テスト、カルテの整理などの軽作業に従事しているが、一時の日常的な痛み、全身の重苦しさからかなり解放されたものの、相変らず疲れ易く、物事に長続きせず、季節の変り目、雨の降る前、寒い時、体力以上に動いた翌日又は翌々日からしばらくの間、生理日などは、以前と同様の全身の倦怠感、しびれ感、首から腕にかけての痛み、腰痛などが戻ってくる。また、年間を通じて朝の目覚めが悪く、体の調子がよい時でも、目覚め後一時間位はそのまま横になっていないと立ちくらみしたり、ふらふらするので、早く目を覚して起きるよう努力するが、それでも起き上れないときは休むか、遅刻するかしかすべがなく、それを無理して動くと翌日まで重苦しい状態が続き、これが重なると風邪をひいたように発熱するし、全身の抵抗力は非常に衰え、よく風邪をひいては、一か月も二か月も長びく状態が現在まで続いている。

4  業務起因性

原告の右疾病は、原告が昭和四五年七月以降前記2のような業務に従事してきたことに起因するもので、このことは、次の事実からも明らかである。

(一) 中腰又は坐位などの不自然な姿勢を長時間とり続け、頻繁に立ち坐りや屈伸を行い、児童を背負い、抱き上げるなど力のいる作業を継続することは、腰痛症発病の典型的な原因であること。

(二) 昭和四六年二月一三日の実態調査によれば、松心園においては、原告の発症と同一時期である昭和四五年一〇月から翌四六年二月までの間、保母、看護婦、生活指導員三六名のうち二四名が腰痛を訴え、うち二二名が腰痛症と診断されていること。

(三) 松心園と同一又は類似の施設、例えば、重症心身障害児施設、肢体不自由児の特殊学級の保母、看護婦、教師などに原告と同一症状の疾病が多発していること。

(四) 作業量の増加(担当患児数の増加)と症状の発生又は悪化が比例的相関関係にあること。

(五) 松心園における腰痛症患者の多発に驚いた松心園当局は、昭和四六年二月二〇日頃、患児の要求をできる限り受容して患児との対人接触を中心とする従来の療育方針を急拠変更し、腰痛の発生原因であるトランポリンの使用を廃止し、おんぶ、だっこ、肩車などを禁止し、かつ、集団治療方法に切り替えたが、このことは、被告自身腰痛症などの発生原因がその業務にあることを充分認識していたといえること。

5  被告の責任

被告は、労働基準法及び同法付属関連法令の趣旨に基づき、労働契約上、その被用者が業務に従事する過程において、その生命、身体、健康を損なうことのないよう充分配慮し、被用者の安全を保護すべき義務を負っているのであるから、原告を含む松心園の生活指導員らについては、腰痛症など右業務から発生し易い疾病にかからぬよう適宜な人員配置、充分な休憩時間の設定・労働時間の短縮など労働条件の整備、疲労防止のための施設の整備など職場環境の改善・準備体操・スポーツ・姿勢指導など職業病予防のための教育、定期健康診断、特殊検診などの健康管理を行い、職業病の予防・早期発見に努めるとともに、申告・診断などによりこれを発見したときは、就業制限、早期治療を適切に行い、病状の悪化を防ぎ、その健康回復に必要な措置を講ずる業務があるというべきである。

しかるに、被告は、原告の右疾病の発生を予防できなかったばかりか、その増悪も防止できなかった。

右のように、原告の右疾病は、被告が自己の被用者である原告の安全、健康保護注意義務を怠ったことによるものであるから、被用は雇用契約上の債務不履行に基づき、原告が右疾病によって蒙った損害を賠償すべき義務を負うとともに、不法行為に基づく損害賠償義務を負うものである。

6  損害

(一) 財産的損害

被告は、原告が右疾病によって欠勤、遅参、早退したことを理由として、昭和四七年四月一日に昇給させて以降昭和五三年四月一日まで原告の昇給を停止しているが、右措置は違法不当であって、原告は昇給差額分の損害を蒙っている。

すなわち、原告は昭和四七年四月一日行政職給料表六等級四号給に昇給し、以後右給料の支給を受けていたのであるが、本件疾病は公務災害であり、そのために欠勤、遅参、早退せざるを得なかったことは明白であるから、少なくとも、次のとおり昇給されるべきであった。

昭和四八年四月一日に六等級五号給へ

同 四九年一月一日に五等級三号給へ

同  年一〇月一日に五等級四号給へ

同 五〇年七月一日に五等級五号給へ

同 五二年一月一日に五等級六号級へ

しかるに、被告は原告に対し右昇給を停止しているため、原告は、昭和五三年三月三一日現在別紙(一)記載のとおり、合計金一六四万二五九〇円の昇給差額分相当額の損害を蒙っている(なお、別紙(一)のうち昇給すべき給料欄の期末・勤勉手当の計算根拠は別紙(二)記載のとおりである)。

(二) 慰藉料

原告は発症当時二五歳の女性であったが、以来昭和五〇年六月に一応の軽快をみるまでの約五年間、前記3記載のような腰痛兼頸肩腕障害による肉体的苦痛を味わい、その間日常の個人生活上も職場生活上も多大の精神的苦痛を蒙った。被告は原告の治療と闘病経過の中でのやむを得ざる病気欠勤、早退などをとらえ、原告を怠け者扱いにし、原告の自閉症児療育にかける熱意に頭から水をかけ、その望む仕事を故意に与えないなど、陰に陽に圧迫し、原告を冷遇し続け、原告の精神的苦痛を倍加させてきたのである。

その慰藉料として金一〇〇万円が相当である。

(三) 弁護士費用

本件損害賠償請求は事案が複雑で、訴訟において請求する以外適正な賠償を求めることができないため、本訴提起に至ったもので、本訴提起にあたって、原告は訴訟に関する一切を原告代理人らに委任し、その報酬として金三〇万円を支払う約束をした。

右報酬額は大阪弁護士会報酬規定に照らして相当であるから、右金員は被告の負担すべき原告の損害である。

7  よって、原告は被告に対し、右金員合計二九四万二五九〇円及びうち弁護士費用を除く金二六四万二五九〇円に対する履行期後の昭和五三年四月一日以降完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実のうち、松心園を主として一歳から中学校年齢児までの自閉症児の治療を目的とすること、自閉症児の症状、治療方法に関する一般的な部分は認めるが、その余の部分は争う。

3  同3(一)の前段の事実は知らない。同後段の事実のうち、原告が、昭和四六年一月二二日星ヶ丘厚生年金病院整形外科において診察を受けたところ、根性腰痛症と診断され、約一か月間の入院加療を指示されたこと、同月三〇日から同年二月二五日まで入院したこと、退院後も同年三月一三日まで病気欠勤したことは認める。なお、原告の主張する三月一四日は日曜日である。

同3(二)の事実のうち、原告が昭和四六年三月一五日から出勤したことは認めるが、原告主張の頃の症状は知らない。その余の部分は争う。

同3(三)の事実のうち、原告が、昭和四七年三月二二日関西医科大学において腰痛兼頸肩腕症候群(疲労蓄積)と診断されたこと、同月三一日吉田医院の吉田正和医師の診察を受けたところ、(筋・神経疲労性)頸肩腕症候群兼根性腰痛症により約二か月間の休業加療を要すると診断されたこと、同年四月一日から翌四八年二月七日まで欠勤した(尤も、昭和四七年六月ないし八月に一時出勤した)ことは認めるが、原告主張の頃の症状は知らない。

同3(四)の事実のうち、原告が、昭和四八年二月八日から出勤し、同四九年九月一〇日までは半日勤務で、同月一一日から同五〇年五月三一日までは午後三時までの勤務で、同年六月一日以降は平常勤務で軽作業に従事していることは認めるが、原告主張の頃の症状は知らない、現在もその症状が変っていないとの主張は争う。

4  同4(二)の事実は認める。同(一)、(三)、(四)の部分は一般論としては認めるが、原告の疾病が業務に起因するとの主張は争う。

5  同5の主張中、使用者が被用者に対し原告主張のような義務を負っていることは認めるが、本件の場合被告がその義務を怠ったとの点は争う。

6  同6(一)の事実のうち、原告が昭和四七年四月一日行政職給料表六等級四号給に昇給し、以後病気欠勤などのため原告主張の昇給をしていないことは認めるが、そのため原告がその主張のような損害を蒙ったとの主張は争う。被告には、昇給後次の昇給時までの間に(原則として一年間)、私事の故障による欠勤(以下、事故欠勤という)が月平均三日(私傷病による欠勤にあっては三日、退参及び早退にあっては三回をもって事故欠勤一日とする)以上の場合には昇給が停止される、但し右の基準に該当し昇給できなかった者が次の昇給期(三か月後)に通算して右の基準以下になった場合には昇給する旨の昇給停止事由が定められており、原告は右停止事由に該当したので、昇給停止の措置をとってきたものである。

同(二)の事実のうち、原告が発症当時二五歳の女性であったことは認めるが、その余の点は争う。

同(三)の事実のうち、原告が原告代理人らに本件訴訟を委任したことは認めるが、その報酬金額は知らない、その余の点は争う。

三  被告の主張

1  原告の疾病は、次の理由により、被告の業務に基づくものではなく、原告自身の体質や心因に起因するものである。

(一) 原告は、昭和四五年七月一日から第一次欠勤前の昭和四六年一月二三日まで外来の自閉症児の療育に従事していたのであるが、原告の疾病との関連において問題になる個人遊戯療法に従事したのは、昭和四五年八月二日から昭和四六年一月一九日までの五か月余で、その間における原告の担当件数は一〇二件であるから、一か月平均は二〇件弱である。

原告は第一次欠勤後の昭和四六年三月一五日から出勤したが、加藤園長から中宮病院における成人の心理テストに従事するよう勧められたのにかかわらず、その指示に従わず、同年七月一日まで外来患児の個人遊戯療法や初診行動観察に従事した。しかし、その数は微々たるもので、個人遊戯療法は通算一六件に過ぎなかった。更に、同年七月一五日頃から同年一一月一一日頃までBグループの一員として週二回程度集団遊戯療法に従事し、その後第二次欠勤まで若干の個人遊戯療法を行なった。結局、第一次欠勤後から第二次欠勤までに担当した遊戯療法は、個人遊戯療法二九件、集団遊戯療法四一件、合計七〇件であって、最も多い月で一か月一五件、平均すると一か月五、六件であった。

松心園では昭和四六年四月から同四七年三月までの一年間において、少ない月で一日平均七・三人、多い月で一日平均一〇・八人の遊戯療法を行なっている。その大部分は原告を除く他の七名の生活指導員が担当しているので、原告以外の生活指導員は集団遊戯療法による一部重複分を考慮してもほぼ一日一件の遊戯療法を行なっており、土曜、日曜、休日などを除外すると一か月二〇件は行なっていることになる。

そうすると、原告の業務量は、第一次欠勤前には他の生活指導員と同程度、第一次欠勤後第二次欠勤前には他の生活指導員の四分の一ないし三分の一程度に過ぎず、他の生活指導員と比較してはるかに少ないことが明らかである。

(二) 生活指導員の勤務時間は、平日は午前九時から午後五時三〇分まで、土曜日は午後零時三〇分までで、日曜日は休日である。したがって、睡眠時間は八時間が確保され、日変動も小さい。

生活指導員の行う主たる業務は遊戯療法であり、それに付随する業務として、準備、後片付け、観察の記録、カンファレンスを行うほか、初診患児の性格テストを行う。個人遊戯療法に要する時間は約一時間であり、集団遊戯療法を行う場合は午前一〇時三〇分から午後一時若しくは二時頃までであるが、その間にはおやつの時間など休息時間が含まれている。

遊戯療法を行うには患児と身体的に接触する必要があり、患児を背負ったり、抱いたり、不自然な姿勢をとることがあるが、患児の年齢は三歳ないし六歳程度の者が多く、この程度の年歳の児童を背負い、抱き上げるなどのことは通常の家庭でも行なっていることであって、特に過重な作業という程のことはない。

松心園職員の疲労調査及び作業分析によると、生活指導員に対する重量負荷の回数は一時間当り患児によるもの一二・六回、一キログラム以上の荷物によるもの五・五回、通算一時間当り一八・一回であって、日勤の保母、看護婦よりは少ない。また、不自然な特殊姿勢をとる回数は一時間当り四五・三回で、日勤の保母、看護婦の約四分の三である。しかも、生活指導員が遊戯療法を行うのは、主として午前中だけであるから、勤務時間中患児と接触する保母、看護婦と比較すると、生活指導員の重量負荷の程度や不自然な姿勢をとる回数ははるかに少ない。

生活指導員が作業後主として疲労を訴える部位は右肩甲部から背中にかけてである。

以上のように、生活指導員は夜間勤務がなく、かつ、患児と接触する時間は限定され、比較的デスクワークが多いのであるから、三交替制によって生活のリズムがこわれ易く、勤務時間中たえず患児と接触せねばならぬ保母、看護婦と比較すると、はるかに疲労度の少ない職種であり、前記疲労調査及び作業分析の結果においては生活指導員の疲労度は保母、看護婦の夜勤の場合の三分の一以下、日勤の場合の約三分の二である。以上の点からみると、生活指導員の業務は通常の勤務状態についてみても、決して原告のいうように過重、苛酷なものではない。

(三) 松心園の建物は、地形上段差があるため変則五階建といえるが、外来患児を担当する原告の職場は本館の一、二階であって、遊戯室、治療室は二階にあり、玩具は二階の遊具庫に収納されているから玩具を持って階段を昇降する必要はなく、患児を誘導して、一、二階を一日数回昇降するに過ぎない。また、グランドを使用することはほとんどなく、グランドにおいて玩具を使用することはないし、病棟や南庭は入院患児が使用する場所であって、外来患児に対して病棟や南庭で遊戯療法を行うことはなかったから、屋外、病棟、南庭から本館二階まで患児を背負ったり玩具を運搬するようなことは全くなかった。したがって、原告の作業はこの点においても苛酷、過重なものではない。

(四) 松心園の保母一名が昭和四五年一〇月腰痛症を訴えて星ヶ丘厚生年金病院に入院し、引続き腰痛症を訴える職員が続出して二四名に達し、同症の二三名の職員が同四六年二月二五日地方公務員災害補償認定請求書を地方公務員災害補償基金に提出したので、被告もこの事態を重視し、府立病院整形外科の富士部長に依頼して特別健康診断を実施し、その大部分が一か月程度の入院又は通院して治療を受けたが、これによってほとんどの者は治癒した。

このように、開園当初集団的に腰痛症が発生したのは、初期緊張、作業の不慣れ、トレーニング不足、その他職場における人間関係などにその主たる原因があったと考えられ、業務と疾病とが不可避的な相関関係にあったと速断することはできないし、また、開園当時の一時的、過渡的な現象と考えられ、その後松心園において腰痛症を訴える者は原告以外ほとんどおらず、右二四名中昭和四六年六月頃までに退職した八名を除く一六名は、原告を除いてすべて従前どおり正常勤務に復しており、更にこのうち一〇名は現在まで結婚などにより退職しているが、原告以外の残り五名の者は長期療養には至らず、正常勤務に就いている。したがって、原告のみその主張のような過重、苛酷な作業に従事していたとは考えられず、特に、前記のように、第一次欠勤後は保母、看護婦はもとより他の生活指導員と比較して問題にならぬ程の少量の作業に従事したに過ぎないのにかかわらず、腰痛を訴え、長期療養に至っているのであるから、原告の疾病をもって業務上の疾病と評価し得る程の業務を行なったために発生したものと認めることは不可能である。

(五) 被告は、前記特別健康診断後も、右富士部長に依頼し、昭和四六年六月二六日、同年一一月六日にも特別健康診断を実施し、更に、昭和四七年一〇月二七日にも被告厚生課の指導によって星ヶ丘厚生年金病院の土井医師、府立成人病センターの小松原医師の健康診断を実施し、原告に対しても各受診を勧めたが、原告はいずれもこれを拒否した。

(六) 原告提出の吉田医師の診断書は、いずれも単に病名が記載されているだけで、検査方法や症状の具体的な内容が記載されていないのであるが、これによっても原告の疾病には精神的要素が強いこと、現在では回復していることが認められる。

(七) 原告は松心園内外において極めて活発な活動をしており、原告がその主張のような疾病に悩まされていたとは到底見受けられない。

例えば、昭和四八年二月頃、松心園にグランド問題(松心園のグランドに中宮病院の職員寮の建設が計画されたところ、反対運動が起り、工事が約半年遅延した)が生じた際、原告は積極的に反対支援運動に参加し、夜遅くまで集会などに出席し、また、同年中には学会出席のため数度上京している。更に、昭和五二年三月一四日に出産しているから、少なくともその一か年以前頃からは異性との交渉を持ち得る健康状態にあったと考えられる。

2  頸肩腕症候群については、昭和五〇年二月五日付「キーパンチャー等上肢作業にもとづく疾病の業務上外の認定基準について」なる労働基準局長通達(基発第五九号)があり(以下、甲通達という)、腰痛については、昭和五一年一〇月一六日付「業務上腰痛の認定基準等について」なる同局長通達(基発第七五〇号)がある(以下、乙通達という)。

右各通達は、頸肩腕症候群や腰痛の業務上外の認定について一般的に適用されている客観的基準であるから、原告が主張する疾病が業務上のものと認定し得るかについて、右通達と対比して検討してみるに、

(一) 甲通達は、「上肢の動的筋労作または上肢の静的筋労作を主とする業務に相当期間継続して従事した労働者であって、その業務量が同種の他の労働者と比較して過重である場合または業務量に大きな波がある場合において、後頭部、頸部、肩甲帯等所定部位に、こり、しびれ、いたみなどいわゆる頸肩腕症候群といわれる症状を呈し、それらが当該業務以外の原因によるものでないと認められ、かつ、当該業務の継続によりその症状が持続するか、または増悪の傾向を示すものであるときは、労働基準法施行規則別表第一の二第三号4に該当する疾病として取り扱う」としている。また、右通達は、「症状の判断に当っては、専門医によって詳細には握された症状及び所見を主に行うこと」とし、更に「適切な療養を行えばおおむね三ヵ月程度でその症状は消退するものと考えられる。したがって、三ヵ月を経過してもなお順調に症状が軽快しない場合には、他の疾病を疑う必要がある」とし、業務上外の認定に当っては「当該労働者の作業態様、作業従事期間及び業務量からみて、本症の発症が医学常識上業務に起因するものとして納得しうるものであることが必要である」としている。

(二) 乙通達は、災害性の原因によらない腰痛について、「重量物を取り扱う業務等腰部に過度の負担のかかる業務に比較的短期間従事する労働者に腰痛が発症した場合で当該労働者の作業態様、従事期間及び身体的条件からみて、当該腰痛が業務に起因して発症したものと認められ、かつ、医学上療養を必要とするものについては、労働基準法施行規則別表第一の二第三号2に該当する疾病として取り扱う」とし、腰部に負担のかかる業務として、「(イ) おおむね二〇キログラム程度以上の重量物又は軽重不同の物を繰り返し中腰で取り扱う業務 (ロ) 腰部にとって極めて不自然ないしは非生理的な姿勢で毎日数時間程度行う業務 (ハ) 長時間にわたって腰部の伸展を行うことのできない同一作業姿勢を持続して行う業務 (ニ) 腰部に著しく粗大な振動を受ける作業を継続して行う業務」をあげている。また、右通達は、業務上外の認定については、「症状の内容及び経過、作業状態、当該労働者の身体的条件、素因又は基礎疾患、作業従事歴、従事期間等認定上の客観的な条件のは握に努めるとともに必要な場合は専門医の意見を聴く等の方法により認定の適正を図ること」としている。

(三) そこで、原告の主張する頸肩腕症候群について、前記原告の作業態様、作業従事期間、業務量並びに当該疾病に関する医師の鑑別診断の結果と前記甲通達と対比しつつ業務起因性についてみるのに、生活指導員の行う遊戯療法が甲通達にいう上肢の動的筋労作を主とする業務であること並びに原告の主張する症状が一般に頸肩腕症候群といわれるものであることは認めるが、以下の理由によって右疾病が業務に起因したものとは認め難い。すなわち、

(1) 原告の業務量が同種の労働者と比較して過重である場合又は業務に波がある場合とはいえない。このことは前に述べたとおりである。

(2) 甲通達によると、当該業務の継続により症状の持続又は増悪の傾向を示すときとされているが、原告の場合は昭和四六年八月ないし一〇月に業務量が多く、同年一一月以後はむしろ業務量が減少しているにかかわらず症状は増悪の傾向を示しており、業務と疾病の間に相関関係があるとは認め難い。

(3) 甲通達によると、症状の判断に当っては専門医による詳細に把握された症状及び所見を主に行うこととされているが、症状の詳細を確認し得る資料が存在しない。原告の症状に関しては吉田医師の診断書が存在するが、カルテは提出されておらず、診断書には病名と欠勤又は早退の必要があるなどの事項が記載されているに過ぎないから、原告がどの程度同医師のもとに通院していたのか、診察の都度どのような症状を訴えていたのか、いかなる思考の過程を経て右診断書に記載されている結論に達したかという肝要の点については右診断書の記載では少しも明らかでなく、専門医によって詳細に把握された症状と所見とは到底認められない。

(4) 甲通達によると、頸肩腕症候群については個々の症状に応じ適切な治療を行えば概ね三か月程度で症状は消退するとされている。原告の場合、診断書によると、約三か月で腰痛症状の軽快をみたので半日勤務を可とする旨の診断がなされているが、その後若干日出勤したものの、その間ほとんど作業という程のことをしていないのにかかわらず、これが限界とされており、業務と疾病の間の相関関係が認め難い。

(5) 原告の主張する症状は、前記三の1の(四)のとおり、松心園に勤務する他の従業員と比較して極めて特異な事例であって、松心園開園当初、保母、看護婦、生活指導員など二四名が腰痛を訴えその大部分が一か月程度の入院又は通院するという事態が発生したが、そのうち退職した八名を除く一六名は原告を除いてすべて正常勤務に復しており、原告のごとく長期休養に至った者はない。

作業態様並びに業務量からみて最も疲労度の少ない原告についてのみなぜその主張するごとき重篤な症状が発生しているのか個人的な体質の問題として捉える以外には理解し難いところである。

以上の点からみて、原告主張の疾病が甲通達に示す業務上の頸肩腕症候群の要件を充足しているとは考え難い。

(四) 次に、腰痛症について前同様乙通達と対比しつつ検討しても、原告の主張する疾病が業務に起因して発生したものとは認め難い。すなわち、

(1) 生活指導員が遊戯療法を行う場合、作業の一部として患児を背負ったり、抱いたりすること、遊戯具を持ったりすることはあるが、その負荷の程度は一時間当り一八・一回程度であって重量物や軽重不同を繰り返し中腰で取り扱う業務とはいえず、また、作業時間は一日せいぜい一、二時間であり、乙通達が腰部に負担のかかる業務として例示する(イ)から(ニ)のいずれの場合にも該当しない。

(2) 生活指導員の作業内容の分析によっても腰部に疲労が残ることはさほど多くないとされている。

(3) 頸肩腕症候群について述べたと同様業務量が少ないこと、業務の継続と症状の持続増悪の間に相関関係が認め難いこと、適切な療養による症状の消退が認められぬこと、専門医による鑑別診断がなされていないこと。

以上の諸点からみて、原告主張の疾病は乙通達に示す業務上の腰痛の要件を充足しているとは考えられない。

(五) 以上のように、原告主張の疾病は頸肩腕症候群の点からみても、腰痛の点からみても、或いは、両者の合併症という観点からみても、医学常識上業務に起因する疾病として納得し得るものとは到底言い得ない。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  原告の作業内容、労働条件等

1  松心園が主として一歳から中学校年齢児までの自閉症児の治療を目的とするものであることは当事者間に争いがない。

そこでまず、松心園の人的構成、物的構造について、本件の判断に必要な限度で簡単に検討する。

(一)  《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

松心園で自閉症児の治療看護にあたる職員は、医師五名、ケースワーカー六名、生活指導員八名(内二名は心理判定員。以下同じ)、看護婦一二名、保母一四名、病棟婦二名であるが、日常療育業務の中核をなしているのは、外来患児担当の生活指導員八名と入院患児担当の看護婦ら二八名である。

その主な業務分担は、松心園開設時から昭和四七年六月頃まで、生活指導員が外来患児の行動観察、遊戯療法の実施など、看護婦が入院患児の看護、診察の介助、生活指導援助など、保母が入院患児の保育、生活指導援助など、病棟婦が配膳、洗たく、掃除などの雑務となっているが、看護婦と保母の業務内容は実態においてほとんど同じである。

看護婦、保母は、日勤(八時三〇分から一六時三〇分まで)、準夜勤(一六時三〇分から二四時まで)、深夜勤(〇時から八時三〇分まで)の三交替制勤務で、生活指導員は日勤(平日は九時から一七時一五分まで、土曜日は一二時三〇分まで)のみである。

(二)  当事者間に争いがない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

松心園は府立中宮病院敷地内に建設された鉄筋コンクリート造地上三階建(一部平家建)の建物であるが、傾斜地に建てられているため、全体として見るといわゆる変則五階建となっており、階段があるのみでエレベーターの設備はない。本館一階(玄関、事務室のある階を便宜上このように呼称し、以下これを基準とする)には待合室、行動観察室、予診室などがあり、その南側の階段を降りると平家建の浴室、洗濯室などが配されている建物部分があり、更に、その南側の階段を降りると平家建の入院患児の病棟があって、その中央は中庭となっている。本館二階には遊戯室、治療室、遊具庫、医療チーム室などがあり、本館三階の渡り廊下を経由して中宮病院の敷地に通じている。待合室から東側中庭に出ることができ、その南方にある高さ約一八四センチメートルの鉄柵を乗越えると南庭に通じ、ここにはブランコ、すべり台などの遊具が設置されている。本館二階のテラスを通って階段を一〇段程昇ると東側にグランドがあり、ブランコ、総合遊具(大きなすべり台、はしごなどのついている遊具)などがある。遊戯室、治療室などには遊具箱、ピアノ、白板、総合板、トランポリン(後記のとおり一時格納されていたが、現在は使用されている)などが置かれており、床はリノリュウムでカーペットなどは敷かれていない(現在はカーペットが敷かれている)。また、廊下の各所には重量のある鉄扉などが設置され、その大部分が常に施錠されている。その鍵穴の位置は高さ約七四ないし八六センチメートルにあり、通常よりやや低い位置に設置されている。更に、中宮病院敷地内には、鳥小屋、プール、温室などがあり、正門横は高さ約一メートルの土手(現在はコンクリートで周囲が固めてある)となっており、バス停もある。また、中宮病院付近には児童公園などがある。

2  自閉症児が「動き回る重障児」ともいわれ、極端に対人関係を断ち、他人のいうことを聞かず、非常に指導性の困難な点に特徴があり、その治療方法として遊戯療法(患児とプレイするなどして接触し、その行動を観察分析することによって集団生活に適合するよう治療すること)が採用され、患児の要求を可能な限り受容することが重視されていたこと、生活指導員の行う主たる業務は遊戯療法であり、これに付随する業務として、その準備、後片付け、行動観察の記録作成、カンファレンスを行うほか初診患児の行動観察をしていたこと、遊戯療法を行うには患児と身体的に接触する必要があり、患児を背負ったり、抱いたり、不自然な姿勢をとることがあることは当事者間に争いがない。

前記1(二)で認定した事実に当事者間に争いのない事実と、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  生活指導員の行う主たる業務は遊戯療法に従事することであるが、松心園開設当初の遊戯療法においては、何よりもまず、患児と視線を合わせることが必要であるとされ、そのため生活指導員は、敏捷な患児の動作に合わせて立ち坐りを頻繁に繰り返し、中腰又は坐位などの無理な姿勢を続けなければならず、また、身体的接触を保つことが必要であるとされたため、可能な限り患児(中には体重三〇キログラムを越える患児もいる)を背負い、抱き上げ、肩車などをしなければならず、その際、患児が急に暴れ出し、或いは、後ろにのけぞるなど不自然な姿勢をすることもあった。更に、患児を背負ったり、抱いたりなどしながら、トランポリン、ブランコ、追っかけっこ、すべり台などの遊戯をしなければならず、その間、生活指導員は中腰姿勢などの不自然な作業姿勢を続けなければならなかった。

遊戯療法は、本館二階の遊戯室、治療室、グランドで実施することになっていたが、ほとんどの患児が屋外での遊戯を要求するため、必然的に松心園全体はもとより、中宮病院、付近の児童公園などで遊戯しなければならず、その際には、患児を背負ったり、抱いたりしながら、階段を昇降し、長時間歩かなければならなかった。また、中宮病院前の道路は交通が激しいため、生活指導員の精神的緊張感は極度に加重された。更に、松心園の廊下の各所に重量のある施錠された鉄扉などが設置され、その鍵穴が通常よりもやや低い位置にあるため、生活指導員は、患児を背負ったりなどしたまま、前かがみの状態で鉄扉などを開閉せざるを得なかった(《証拠判断省略》)。

生活指導員は、遊戯療法に付随して、その都度、遊具庫から二、三回にわたり玩具を運搬して患児の目につき易いところに配置するなど部屋の準備をし、また、遊戯療法の後には、遊具庫に玩具を戻したり、汚れた白板、床の清掃などの後片付けをし、更に、遊戯療法の行動観察の記録を作成した。右行動観察の記録作成は、遊戯療法に従事した当時に患児毎に遊戯療法の内容を詳細に記録するため、遊戯療法の時間と同じ程度の時間を要し、夜遅くまでかかることもあった。更に、遊戯療法は一人一時間を要する計画であったが、患児との接触を保つためには計画どおりにすることは困難であり、生活指導員は充分に昼休み(一二時二〇分から一三時二〇分まで)をとることができなかった。

生活指導員は、遊戯療法のほか月一回程度の心理テスト、週一回一ないし二名の初診患児の行動観察を行なった。初診行動観察は、ケースワーカーが母親などと面接している間に、初診患児の行動を三〇分程度観察、テストして記録を作成するものであるが、初めての患児であるため精神的緊張度は高く、一緒に遊戯することもあった。そして、右初診行動観察の当日には、右記録などを資料としてその患児を担当した生活指導員、ケースワーカー、医師らの間で初診カンファレンスがもたれ、入院又は通院をして遊戯療法を行う必要があるか否かを医師が判断する。

右のほかに、隔週一回三時間程度の全体会議、チーム室会議(医師、生活指導員、ケースワーカーが参加する)、毎週二回二時間程度のケースカンファレンス、毎週一回三時間程度の心理研究会(担当者が一冊の本の内容をまとめ、これと担当患児のケースとを比較対照して資料を作成し、療育方針について検討する)などがあり、右会議などの報告担当者にあたるとその資料作成にかなりの時間を要し、夜中までかかることもあった。

(二)  原告は、昭和四五年七月一日以降第一次欠勤(昭和四六年一月三〇日から同年三月一三日まで。なお、同月一四日は日曜日である)前までの間に前記(一)のとおりの業務を担当したが、原告が右の間に行なった遊戯療法の延件数は、個人遊戯療法(患児と一対一でするもの)が昭和四五年八月に一二件、九月に一八件、一〇月に二一件、一一月に二三件、一二月一九件、翌年一月に八件であり、このほかに、複数の患児を複数の生活指導員で療育する集団遊戯療法の形をとるが、原告がそのうちの一名を担当する遊戯療法(以下、木曜グループという)が、昭和四五年八月に二件、九月に四件、一〇月、一一月に各三件、一二月に二件、翌年一月に一件であり、一日に三件の遊戯療法を行なった日もあった。遊戯療法は平日に行われるので、土曜日、祝休日、年休などを除外すると、原告は平日一日当り一件余りの遊戯療法を行なったことになり、他の生活指導員とほぼ同程度の業務を担当していた(《証拠判断省略》)。

(三)  原告は、第一次欠勤後の昭和四六年三月一五日から出勤したが、第二次欠勤(昭和四七年四月一日から昭和四八年二月七日まで)前までの間に、原告が行なった遊戯療法は、木曜グループの一件のほか、昭和四六年七月まで週一件の個人遊戯療法、同月九日から昭和四七年三月二一日まで(ただし、同月一七日には参加していない)週二回行うBグループの集団遊戯療法(昭和四六年一〇月二九日までは昼食などを含めて九時から一三時まで、それ以降は九時から一五時三〇分まで)、昭和四六年一一月頃からは週一件の個人遊戯療法であり、この間原告が行なった遊戯療法は、他の生活指導員と比較してかなり少ないものであった(《証拠判断省略》)。

(四)  原告は第二次欠勤中の昭和四七年六、七月、一〇、一一月に通算して二八日間出勤したが、一日を除いていずれも早退か土曜日出勤であり、遊戯療法は全く行わず、電話番程度の作業に従事したのみであった。

(五)  原告は、第二次欠勤後の昭和四八年二月八日から出勤し、被告の承認を得て、昭和四九年九月一〇日までは半日勤務、昭和五〇年五月三一日までは午後三時までの勤務、翌一日以降は平常勤務で主として電話番、事務用品の請求事務などの軽作業に従事しているが、同年五月頃からは週一回の初診行動観察に、昭和五一年五月頃からは週一回の集団遊戯療法にも参加している。

以上のとおり認めることができ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

三  原告の症状、治療経過等

当事者間に争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

1  原告は、昭和四四年一一月一七日被告に採用されるまでは特記すべき既往症はなく、おおむね健康であったが、昭和四五年九月頃から肩がこり、体全体の疲労感がとれず、同年一〇月頃には腰痛を感じるようになり、患児と遊戯した翌日には疲労感、腰痛、腕のだるさ、肩こり感が増大し、翌四六年一月頃まで右症状が悪化の一途をたどった。

そこで、原告は、同月二二日星ヶ丘厚生年金病院整形外科において診察を受けた結果、根性腰痛症と診断され、約一か月間の入院加療を指示されたので、同月三〇日から同年二月二五日まで入院治療を受け、引続き同年三月一四日まで自宅で静養しながら通院治療を受けた(第一次欠勤)。

2  右治療の結果、症状がある程度軽快したため、原告は、同月一五日から出勤したが、同年六月頃には体全体の疲労感も残り、腰痛をも感じるようになったので、同月二六日に松心園で実施された特別健康診断を受診したところ、担当医師の府立病院整形外科富士部長から、痛いのは生きている証拠などと言われ、簡単な診察ののち異常なしと診断されたものの、その頃から鍼灸治療、腰痛の予防体操を続けるなどしたこともあって、同年秋頃までは一進一退の状態が続いた。しかし、同年一二月頃から寒さが厳しくなるにつれて、原告の症状は急激に悪化し、鍼灸医院で順番を待っているのも耐えられない程の状態になり、毎朝腰痛で目が覚め、寒い朝方にはエビ状でしか就寝できないような状態が続き、昭和四七年二月に入ると、寝つきも悪くなり、腰痛のために一晩中眠れないときもあり、更に、肩、腕、指先にもしびれ感があり、手に持っている物を落したり、手が震えて字も書けない状態となった。

そこで、原告は、同年三月二二日関西医科大学で診察を受けたところ、腰痛兼頸肩腕症候群(疲労蓄積)と診断され、更に、同大学の細川医師の指示により同月三一日吉田医院の吉田正和医師の診察を受けた。吉田医師は原告に対し、問診、打診、触診、神経テスト、血液検査、レントゲン検査(首、頸椎)などを実施した結果、頸肩腕部、腰部、背部、手指に圧痛が認められ、筋肉が硬化し、腰髄神経根症状があり、全身的に疲労度が高かったため、勤務を継続すると症状を悪化させるものと判断し(なお、同年二月一六日済生会病院で撮影したレントゲン写真によると、原告には第一脊椎に軽い先天性の脊椎披裂(潜在性)があることが認められるが、これは前記原告の症状を惹起させるものではない)、右同日付で、(筋・神経疲労性)頸肩腕症候群兼根性腰痛症により約二か月間の休業加療を要すると診断した。

原告は、同年四月一日から欠勤し、吉田医院、星ヶ丘厚生年金病院で物療・理学療法(温熱療法、牽引療法)、注射(痛止めなど)、内服薬の投与、腰痛の予防体操の指導などを受けたり、同年一一月から翌四八年一月頃まで郷里の鳥取県に帰り、温泉病院に通院して治療を続けた結果、同年二月初めには筋肉の圧痛、硬化が減少し、全身の痛みも相当減少した(第二次欠勤)。

3  原告は、同月八日から再び出勤(半日勤務)し、ほぼ毎月一回吉田医師の診察を受け症状は漸次軽減していったが、それでも雨の降る前とか体力以上に動いた翌日頃には腰痛がもどり、また、朝目が覚めにくく、目覚めても起上がるのに一苦労するという状態が続いた。昭和四九年九月一一日の吉田医師の診察時には、原告の症状は著明に軽減し、午後三時までの勤務を許可されるようになった。原告は、右同日同医師から週一回の通院を指示されていたが、その後昭和五〇年五月二八日までの約八か月間同医師の診察を受けることもなく、右同日には、同医師から、経過良好で、平素は疼痛もなく神経質になっているため風邪などに際してのみ肩、背中、腰の痛みが現われる程度であり、投薬も不要で平常勤務のうえ推移を観察すると診断されるまでに回復していた。そして、同年九月一三日には、主訴はあるものの、客観的な症状はほとんどなくなり、母子一組位隔日程度なら扱っても支障がほとんどないという診断であった。原告は、その以降も不定期的に同医師の診察を受けているが、症状の再変は全く見られない状態である。

以上のとおり認めることができる。

なお、《証拠省略》によれば、原告は、昭和四八年二月頃、被告主張のグランド問題が生じた際に、積極的に反対支援運動に参加し、夜遅くまで集会などに出席し、また、同年中に数回にわたり学会に参加するため上京したことが認められるが、この時期は前記のとおり原告の症状が相当軽快していた頃であるから、右認定の原告の私生活上の行動は原告の症状の推移、程度についての前記認定を妨げるものではない。

また、被告は、昭和四六年六月二六日、同年一一月六日に富士部長による特別健康診断を実施し、更に、昭和四七年一〇月二七日にも被告厚生課の指導によって星ヶ丘厚生年金病院、府立成人病センターの各医師による特別健康診断を実施し、原告に対しその受診を勧めたのに、原告が理由もなく受診を拒否したことをもって、原告には前記認定のような症状がなかったと主張するかのようであるが、《証拠省略》によれば、原告は、富士部長による右六月二六日の健康診断を受診したが、前記のような症状があるにもかかわらず同医師から異常なしと診断されたため、同医師の診察に不信感をもち、右一一月六日に実施された健康診断を受診しなかったこと、右一〇月二七日の健康診断は第二次欠勤中に実施されたものであり、その後原告が出勤してからも右各病院での受診を積極的に勧めてはいないことが認められるのであるから、右健診を受診しなかったことをもって、直ちに原告の症状の推移、程度についての前記認定を妨げるものではない。

他に前記認定を左右するに足る証拠はない。

四  業務起因性

1(一)  労働省労働基準局長が、頸肩腕症候群について昭和五〇年二月五日「キーパンチャー等上肢作業にもとづく疾病の業務上外の認定基準について」と題する通達(基発第五九号。甲通達)を発し、また、災害性の原因によらない腰痛について昭和五一年一〇月一六日「業務上腰痛の認定基準等について」と題する通達(基発第七五〇号。乙通達)を発し、右各通達をもって、現在その業務上外認定の行政基準としていることは当裁判所に顕著な事実である。

右甲通達及びその解説によると、いわゆる「頸肩腕症候群」とは、種々の機序により後頭部、頸部、肩甲帯、上腕、前腕、手及び指のいずれかあるいは全体にわたり、こり、しびれ、いたみなどの不快感をおぼえ、他覚的には当該部諸筋の病的な圧痛及び緊張若しくは硬結を認め、時には神経、血管系を介しての頭部、頸部、背部、上肢における異常感、脱力、血行不全などの症状をも伴うことのある症状群であると定義され、それが業務上の疾病と認定すべき基準として、(1) 上肢の動的筋労作または静的筋労作を主とする業務に相当期間(一般的には六か月程度以上)継続して従事した労働者であること、(2) 業務量が同種の他の労働者と比較して過重である場合又は業務量に大きな波のあること、(3) 右の頸肩腕症候群の症状を呈すること、(4) その症状が、鑑別診断によっても、当該業務以外の原因(外傷及び先天性の奇形による場合、関節リウマチ及びその類似疾病等八項目などの疾病による場合)によるものでないと認められること、(5) 当該業務の継続によりその症状が持続するか又は増悪の傾向を示すことを掲げ、頸肩腕症候群は適切な療養を行えば、おおむね三ヵ月程度でその症状は消退するものと考えられるから、三ヵ月を経過してもなお順調に症状が軽快しない場合には、他の疾病を疑う必要があるとし、症状の判断にあたっては専門医による詳細には握された症状及び所見を主に行うこととされ、要するに、業務上の認定にあたっては、当該労働者の作業態様、作業従事期間及び業務量からみて、その発症が医学常識上業務に起因するものとして納得しうるものであることが必要であるとされている。

また、右乙通達及びその解説によると、災害性の原因によらない腰痛について、重量物を取り扱う業務等腰部に過度の負担のかかる業務に従事する労働者に腰痛が発症した場合で当該労働者の作業態様、従事期間及び身体的条件からみて、当該腰痛が業務に起因して発症したものと認められ、かつ、医学上療養を必要とするものについては、労働基準法施行規則第三五条第三八号に該当する疾病として取り扱うものとし、腰部に過度の負担のかかる業務として、(イ) おおむね二〇キログラム程度以上の重量物又は軽重不同の物を繰り返し中腰で取り扱う業務、(ロ) 腰部にとって極めて不自然ないしは非生理的な姿勢で毎日数時間程度行う業務、(ハ) 長時間にわたって腰部の伸展を行うことのできない同一作業姿勢を持続して行う業務、(ニ) 腰部に著しく粗大な振動を受ける作業を継続して行う業務を掲げ、業務上外の認定にあたっては、症状の内容及び経過、作業状態、当該労働者の身体的条件、素因又は基礎疾患、作業従事歴、従事期間等認定上の客観的な条件のは握に務めるとともに必要な場合は専門医の意見を聴く等の方法により認定の適正を図ることとされている。

しかして、右甲通達及びその解説の認定基準(2)については、比較の基準をどこに置くかに問題がなくはないが、右の点は業務量と個体の体力とのアンバランスから頸肩腕症候群が発症したと認められればそれで足りる趣旨と解するのを相当とし、また、適切な療養を行えば概ね三か月程度でその症状は消退するとの点については、《証拠省略》によれば、一般に、頸肩腕症候群の治療は非常に困難であり、軽症のうちに治療すれば完治するが、ある程度以上に症状が進行して慢性化してから治療する場合には相当長期間にわたる場合もあることが認められるので、右の点は頸肩腕症候群であるか否かの判定にとってさほど重要視すべきものではないと考える。

(二)  《証拠省略》を総合すると、次のとおり認められる。

(1) 日本産業衛生学会頸肩腕症候群委員会(労働省委託「頸肩腕症候群に関する研究」委員会を兼ねる)は、頸肩腕症候群を「業務による障害を対象とする。すなわち、上肢を同一肢位に保持、又は反復使用する作業により神経・筋疲労を生ずる結果おこる機能的あるいは器質的障害である」と定義し、病像形成に精神的因子及び環境因子の関与も無視し得ず、したがって、本障害には従来の成書に見られる疾患も含まれるが、大半は従来の尺度では診断し難い性質のものであり、新たな観点に立った診断基準が必要であるとしていること、また、その病像の進展を分類して、Ⅰ度 必ずしも頸肩腕に限定されない自覚症状が主で、顕著な他覚的所見が認められない、Ⅱ度 筋硬結・筋圧痛などの所見が加わる、Ⅲ度 Ⅱ度の症状に加え、筋の腫張・熱感など八項目の所見の幾つかが加わる、Ⅳ度 Ⅲ度の所見がほぼ揃い、手指の変色・腫張・極度の筋力低下なども出現する、Ⅴ度 頸腕などの高度の運動制限および強度の集中困難・情緒不安定・思考判断力低下・睡眠障害などが加わるとしていること。

(2) 頸肩腕症候群及び災害性の原因によらない腰痛症(以下、後者を疲労性腰痛症という)の病理機序、診断・治療方法等は未だ十分に解明されるには至っていないが、業務に従事することにより、頸、肩、腕などの筋肉の持続的緊張による筋肉疲労が生じ、また、高度の注意集中を要求され、責任を持たされることからくる精神的な緊張により筋肉の疲労が強められるほか自律神経の失調も生じ、その結果おこる機能的器質的な障害ということができ、作業姿勢に無理が多い、同一姿勢の連続を強いられる、同一動作の繰り返し、危険又は注意集中が高い、制約や責任の度合が高い、対人接触が多いなどの作業が一般に作業疲労の度合が高いものと考えられていること、その発症については、作業内容等の労働負荷の程度のほかに当該労働者の心理的要因、これをとりまく社会的要因の関与が否定できないと一般に考えられていること、その治療は、非常に困難であり長期間にわたることが多く、業務から離れることによって通常症状は軽快していくが、それも一進一退を繰り返しながら回復していくのが通例であり、また、軽快したようにみえても過度でない頸肩腕部等を使う作業に従事したり、気候の変化などの刺激に合うとたちまち症状が再燃する例が多く、そのため復職する場合には頸肩腕部等を使う業務には就けないようにし、治療を続けつつ、しかも、勤務時間も当初は短時間とし、次第に通常に戻していくという具合に段階的に職場に復帰するようにするのが望ましいと考えられていること。

以上のとおり認めることができ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

2  そこで、以上の考え方に従って原告の疾病の業務起因性について判断する。

(一)  原告の従事した作業内容と原告の症状の推移は前記二、三において認定したとおりであって、原告の主たる業務である遊戯療法は、患児と常時視線を合わせ、身体的接触を保つ必要があることから、中腰や坐位などの不自然ないし非生理的な姿勢を長時間とり続け、患児の動作に合わせて立ち坐りを頻繁に行わねばならず、また、常時患児を背負い、抱き上げたりすることも多く、その間に患児が急に暴れたりして頸肩腕部や腰部に急激な負担がかかり、或いは、患児の危険な動作を防止するために高度の注意集中も要求され、患児を療育するところから作業上の責任の度合も高いものであって、疲労の多い作業内容であると認められるところ、原告は、昭和四五年八月から第一次欠勤前の昭和四六年一月まで他の生活指導員とほぼ同程度の遊戯療法を行なったが、昭和四五年九月頃から肩がこり、体全体の疲労感がとれないようになり、同年一〇月頃には腰痛をも感じるようになって、その後徐々に症状が悪化し、昭和四六年一月三〇日から欠勤するに至ったが、業務から約一か月半離れて治療しているうちに症状は全体として軽快に向ったこと、しかし、同年三月一五日の復職後、再び遊戯療法に従事しているうちに同年六月頃から欠勤前と同様な症状が発生しはじめ、鍼灸治療を続けるなどして同年秋頃までは一進一退の状態が続いたものの、寒さが厳しくなるにつれてそれが急激に悪化し、第二次欠勤に至ったこと、そして、業務から約一〇か月間離れて治療を続けた結果、症状は軽快に向い昭和四八年二月八日から復職したこと、その後、昭和五〇年五月三一日まで勤務時間を段階的に延長して軽作業に従事し、同年五月頃からは初診行動観察にも従事するようになり、この間、昭和四九年九月一一日から昭和五〇年五月二八日まで吉田医師の診察を受けることもなく、右二八日には、平素は疼痛もなく、同医師から投薬も不要と診断されるまでに回復し、同年九月には、客観的な症状はほとんどなくなるまで回復したことが認められる。

(二)  《証拠省略》によれば、昭和四七年三月三一日から原告の診察、治療にあたった吉田医師は、業務に起因する頸肩腕症候群、疲労性腰痛症について専門的に研究を行い、或いは、実際に治療を行なった経験のある医師であるが、原告の症状は問診、触診、レントゲン検査などの諸検査の結果からみて頸肩腕症候群兼疲労性腰痛症であって、頸肩腕症候群は前記病像の分類のⅡ度にあたるものであり、また、原告には右症状をおこさせる基礎疾患はなく、原告の作業歴等からみて、原告の疾病が業務に起因するものであることは明らかであると診断していることが認められる。

被告は、吉田医師の診断書には病名と欠勤又は早退の必要があるなどの事項が記載されているに過ぎないから、専門医によって詳細に把握された症状と所見があるとは認められない旨主張するが、《証拠省略》によれば、診断書には通常右の程度の記載がなされるだけであって、特に症状について意見を求められたときに限って、カルテを参考にして別途詳細な意見書を作成するのが通例であることが認められ、また、前記認定のとおり、吉田医師は諸検査の結果から前記診断をなしたものであるから、被告の主張は理由がない。

(三)  当事者間に争いのない事実、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(1) 松心園では、昭和四五年一〇月保母一名が腰痛症と診断されて星ヶ丘厚生年金病院に入院し、引続き腰痛を訴える者が続出して、昭和四六年二月一三日には、生活指導員六名、看護婦五名、保母一一名、病棟婦二名の合計二四名が腰痛を訴え、内二二名が腰痛症と診断されたこと、右二四名の内七名(生活指導員三名、保母三名、病棟婦一名)のみが職場から離れることなく通院治療を受け、残り一七名は一か月ないし三か月の年休、病欠などをとらざるを得ず、入院治療を受けたこと、しかも、松心園開設後一年余りで八名(看護婦三名、保母五名)が退職し、その大部分の者(七名)は年休又は病欠のまま退職していること。

(2) 右のように腰痛症患者の多発を契機として、松心園では、昭和四六年二月二〇日頃患児の要求をできる限り受容した患児との接触を中心とする従来の療育方針を変更し、なるべく個人遊戯療法を少なくし、集団生活のできる患児については集団遊戯療法を行うこととし、しかも、その際にはおんぶ、だっこ、肩車などはなるべくしないようにし、トランポリンの使用を禁止するなどの措置をとったこと、

(3) 松心園と同一又は類似の施設である重症心身障害児施設、肢体不自由児の特殊学級の保母、看護婦などに原告と同一症状の疾病が多発していること。

(四)  以上の事実と前記認定の原告の作業歴(前記二の事実)、原告の症状と治療経過(前記三の事実)を総合して考えれば、原告の頸肩腕症候群兼疲労性腰痛症はその業務に起因するものと認めるのが相当である。

しかしながら、前記のとおり、原告は、昭和四九年九月一一日に吉田医師から週一回の通院を指示されていたのに昭和五〇年五月二八日までの約八か月通院することもなく、また、右同日には、平素は疼痛もなく、神経質になっているため風邪などに際してのみ腰などの痛みが現われる程度であって投薬も不要とされるまでに回復し、同年九月一三日には、主訴はあるものの、客観的症状はほとんどなくなり、母子一組位隔日程度なら扱っても支障がほとんどないと診断されていること、同年五月頃は電話番などの軽作業のほかに週一回の初診行動観察にも従事していること、その後は不定期的に吉田医院に通院しているのみで、症状の再変は全く見られないこと、原告の症状には多分に精神的要素も認められることからすると、現在まで原告が訴えている症状のすべてが業務に起因する頸肩腕症候群兼疲労性腰痛症によるものと認めることはできず、少なくとも昭和五〇年八月末日までの原告の症状が頸肩腕症候群兼疲労性腰痛症によるものであると認めるのが相当である。

被告は、第一次欠勤後から第二次欠勤までの間原告の行なった遊戯療法の回数が他の生活指導員と比較してはるかに少なく、また、生活指導員の疲労度が保母、看護婦と比較してはるかに少ないことから、原告の疾病は業務に基づくものではなく、原告自身の体質や心因に起因するものである旨、また、昭和四六年八月ないし一〇月に原告の業務量が多く、同年一一月以降はむしろ業務量が減少しているにもかかわらず症状が増悪の傾向を示しているから、業務と疾病の間に相関関係があるとは認められない旨主張するが、頸肩腕症候群は、業務量と個体の体力とのアンバランスから発症するものであり、原告は既に昭和四六年二月二二日星ヶ丘厚生年金病院において根性腰痛症と診断されて入、通院して治療を受けたことは前記のとおりであるから、同種の労働者、あるいは原告の従前の業務量と比較して単に少ないということのみではその業務起因性を否定することはできないばかりか、原告の場合、その作業態様、作業従事期間、及び業務量からみて、その発症は医学常識上業務に起因するものとして納得し得るものであることは前記認定のとおりであり、また、被告がその主張の根拠としていると思われる《証拠省略》が信用できないことは前記のとおりであるのみならず、頸肩腕症候群は気候の変化等の刺激によってもたちまち症状が再燃する場合もあるのであるから、被告の主張は理由がない。

五  被告の責任

1  被告が、使用者として、労働基準法及び同法付属関連法令の趣旨に基づき、労働契約上その被用者に対し、腰痛症などその業務から発生し易い疾病にかからぬよう適宜な人員の配置、充分な休憩時間の設定・労働時間の短縮など労働条件の整備、疲労防止のための施設の整備などの職場環境の改善、準備体操・スポーツ・姿勢指導など職業病予防のための教育、定期健康診断、特殊検診などの健康管理を行い、職業病の予防・早期発見に努めるとともに、申告、診断などによりこれを発見したときは、就業制限、早期治療を適切に行なって病状の悪化を防ぎ、その健康回復に必要な措置を講ずる義務(安全配慮義務)を負っているところ、労働基準法、労働者災害補償保険法等の法意に鑑みれば、被用者の疾病につき業務起因性が肯定される以上、特段の事情がない限り、被用者の右疾病は使用者が右安全配慮義務を充分果さなかったことによるものと推定され、これを争う使用者において右特段の事情を立証する責任を負うものと解すべきである。

2  そこで、右特段の事情の存否について判断する。

(一)  まず、第一次欠勤の原因となった原告の腰痛症の発症について被告の責任を否定するに足りる特段の事情について被告は特に主張しておらず、また、右事情を認める証拠も存在しないというべきである。

(二)  次に、第一次欠勤後第二次欠勤に至る経緯について検討する。

《証拠省略》によれば、原告が昭和四六年三月一五日再び松心園に出勤した際、当時の加藤園長は、中宮病院の作業病棟における成人の心理テストがその頃腰痛症で入院していた職員が退院して職場に復帰した時に従事させていた軽作業であったことから、原告に対しても以後右成人の心理テストに従事するよう指示し、患児の療育には従事しないよう述べたところ、原告は右指示に対し「子供達から離れることはできない」と述べてこれを拒否し、患児の療育に従事させてほしい旨申入れ、従前から担当していた患児のうち自分になついている二名を選んで個人遊戯療法を継続し、もう一名の患児の母親の面接をも担当したが、右の業務量は原告が第一次欠勤前に担当していた個人遊戯療法の担当数に比べて三分の一ないし四分の一の数であったこと、松心園事務当局は原告の右申入れを受入れ、原告の体ならし程度の仕事に従事してもらうという意識を持って具体的な担当患児の選択、担当業務量については原告の意思に任せており、原告には具体的な指示を与えていなかったこと、右折衝以外に原告が第二次欠勤に至るまで原告と松心園事務当局の間において原告の担当業務の内容、量に関して何らの折衝も行われたことがないこと、原告は昭和四六年七月九日から、生活指導員四名が患児八名を対象に週二回療育を行うBグループの集団遊戯療法を担当し、同年一一月頃から週一件の個人遊戯療法が加わったが、その業務量は他の生活指導員と比べてかなり少なかったこと、原告の第一次欠勤時の頃に同じく腰痛症で休職した生活指導員のうちで、休職後松心園に復帰した際、原告のように休職前と比べて担当業務量を縮少された者はおらず、休職前と同じ担当患児を受け持ったこと、患児の遊戯療法は生活指導員が現実にその業務に従事中は自己の身体をかばって適当にすますことのできない性質を有し、もしそのような措置をとった場合は患児との接触を保つことができず、遊戯療法の効果も上らないこと、したがって、担当する生活指導員の腰部、頸肩腕部にかなり悪影響を与える業務であり、原告はそのことを十分承知していたことがそれぞれ認められ(る。)《証拠判断省略》。

原告は、原告が第一次欠勤後職場に復帰して当時の加藤園長に対して軽作業に就かせてほしい旨申し出たところ、同園長は「軽作業などない、あなたの体はこの施設に合わないから辞めなさい。半人前の人にできる仕事は松心園にない。給料分働いてもらわなければ困る」、「辞めるか、一人前の仕事をするか」と迫られた旨主張し、《証拠省略》によれば、原告は右主張に沿う供述をしている。

しかし、前記認定事実によれば、加藤園長は、原告が成人の心理テストに従事することを拒否したことに異を唱えることなく、原告がなす患児の療育業務について一切口出しをせずに原告に任せていたものであって、結局第一次欠勤後の業務については原告の希望が全面的にかなえられたものであり、《証拠省略》によれば、加藤園長が原告に指示した成人の心理テストは生活指導員の本来の業務である患児の療育業務に比較するとまさに半人前のような軽作業であることが推認され、同園長はその軽作業に就くことを原告に指示していたのであるから、その加藤園長が、原告が主張するように、原告に対し「軽作業などない、あなたの体はこの施設に合わないから辞めなさい。半人前の人にできる仕事は松心園にない、給料分働いてもらわなければ困る」旨述べることはそれ自体矛盾しているといわなければならず、また、前記認定のとおり、当時腰痛症にかかって職場に復帰してきた職員に退職を勧告することはなく、成人の心理テストに従事させていたものであるから、加藤園長が原告に対してのみ退職を迫ることは不自然であること、《証拠省略》によれば、昭和四六年二月頃松心園において腰痛症が大量に発生した後府職労中宮病院支部は腰痛問題闘争委員会を組織し、松心園事務当局と何回か団体交渉を重ね、自分達の要求を卒直に松心園事務当局に表明しており、その頃原告ら腰痛症の罹病者二三名は右腰痛症について公務災害認定の申請をしており、原告を含む生活指導員三名は昭和四六年六月から実施された特別健康診断の受診を第二回目から拒否する一種の闘争、更には松心園から中宮病院への配転に反対する闘争を行なっていることが認められ、右事情を考慮すると、原告を含む腰痛問題闘争委員会は園長など松心園事務当局が不当な取扱いをした場合にこれを黙している状況にはなく、直ちに抗議行動などをとる態勢にあったことが推認され、園長が当時腰痛症について公務災害認定の申請をしている原告に対し退職を迫るということは大きな問題であると思われるのに、全証拠によるも腰痛問題闘争委員会が松心園事務当局の原告に対する取扱いについて特に問題として取上げた形跡は見当らず、あるいは、原告が加藤園長の言動について同僚なり右委員会に相談した事実も認められず、以上の諸事情を考慮すると、同園長が第一次欠勤後出勤してきた原告に対し原告主張のような前記趣旨のことを述べた旨の原告本人尋問の結果はたやすく信用することができない。

仮に、加藤園長がそのような趣旨のことを述べたとしても、原告に対し右言辞を執ように繰り返したことを認める証拠は存在せず、原告においても同園長にそのように言われたために立腹のあまり患児の療育業務に就いたとか、成人の心理テスト以外に担当する業務を希望したが、同園長から拒否されたためにやむなく患児の療育業務を担当したという事情を認めるに足りる証拠もない。

以上のとおりであるから、原告が第一次欠勤後再び患児の療育業務を担当するに至ったことについて松心園側に非難されるべき理由は見い出し難く、原告が患児の療育業務に就いたのは原告の強い希望によるものというべきである。

また、《証拠省略》によれば、原告は昭和四六年三月一五日職場に復帰した後の同年五、六月頃から症状が現われたが、職場の中で互いに灸をし合いながらさ程ひどくならないような状態でその年の秋を過ごし、同年一二月頃から寒さが厳しくなるにつれて症状は急激に悪化していったけれども、第二次欠勤に至るまで鍼灸院における鍼灸治療の外に整形外科などの専門医により診察を受けたことはないこと、第一次欠勤後第二次欠勤に至るまでの原告の出欠勤の状況については昭和四七年三月に病欠を三日とったのみで、他に病欠で休んだことはなく、その間の出勤率もかなり良い方であったこと、したがって、原告は病状が悪化してからもかなり無理をして療養業務を続けたことが認められ、昭和四七年三月三一日に至って突然のように吉田医師により二か月の休業加療を要する旨の診断がなされ、第二次欠勤に入ったことは前記のとおりである。

以上の諸事情を前提にして考慮するのに、加藤園長は第一次欠勤後の原告の業務については、原告の希望を受入れ、業務内容についても指示を与えず、原告に任せていたことは前記のとおりであるが、それによって松心園事務当局の原告に対する安全配慮義務が尽くされたものということはできず、原告が第一次欠勤の原因となった患児の療育業務に再び就いた以上、再発しないように適宜の措置をとるべき義務を有しているものというべきである。尤も、中宮病院では腰痛対策として昭和四六年六月二六日から特別健康診断を実施したところ、原告は右同日の検診以後富士部長の受診を拒否したことは前記のとおりであるけれども、弁論の全趣旨によれば、松心園事務当局はそれを放置して原告のなすがままに任せていたものと推認され、その後原告に対し意を尽くして受診させるよう働きかけたことを認めるに足りる証拠もないのであるから、右の事情をもってしても松心園当局が安全配慮義務を尽くしたとすることはできない。

一方、原告は第一次欠勤後、加藤園長の指示する軽作業を拒否し、再び従前と同じ療育業務に就いたものであり、右業務が自己の腰部、頸肩腕部に悪影響を与えるものであることは十分承知していたものであるから、原告自身同じような疾病にかからないように十分注意し、体の異状に気づいたならば適宜専門医の診察を受けるなり、松心園事務当局に連絡をとって担当業務の範囲について検討を加える必要があるのに、細川、吉田両医師の診察を受けるまでは松心園事務当局に申出るなど何らの措置もとっておらず、鍼灸院で治療する以外に特に専門医の診察を受けていないのであるから、右疾病は罹患した本人の訴えがない限り他から客観的に症状を把握しにくいものであることを考慮すると、第二次欠勤及びそれ以後の欠勤の原因となった腰痛症並びに頸肩腕症候群の発症については原告側にもかなりの大きな原因があったものといわなければならない。

(三)  以上に述べた(二)の諸事情を考慮すると、被告が負担すべき損害の範囲は、原告に生じた後記損害のうち、その五割をもって相当とすると解すべきである。

六  原告の損害

1  財産的損害

原告が、昭和四七年四月一日に行政職給料表六等級四号給に昇給し、以後昇給停止の状態にあることは当事者間に争いがなく、原告に昇給停止事由がなかったならば、原告が、

昭和四八年四月一日に六等級五号給へ、

同四九年一月一日に五等級三号給へ、

同年一〇月一日に五等級四号給へ、

同五〇年七月一日に五等級五号給へ、

同五二年一月一日に五等級六号給へ、

それぞれ昇給していたことは、被告において明らかに争わないからこれを自白したものと見做し、また、被告が原告に対し、被告には昇給後次の昇給時までの間に、私事の故障による欠勤(事故欠勤)が月平均三日(私傷病による欠勤にあっては三日、遅参及び早退にあっては三回をもって事故欠勤一日とする)以上の場合には昇給が停止される、但し、右の基準に該当し昇給できなかった者が次の昇給期(三か月後)に通算して右の基準以下になった場合には昇給する旨の昇給停止事由が定められており、原告は右停止事由に該当したので、昇給停止の措置をとっていることは被告の自陳するところである。

《証拠省略》によれば、昭和五〇年九月一日から昭和五一年一二月三一日までの原告の病欠日数(土曜日は〇・五日とする。《証拠判断省略》)、遅参及び早退の回数は別紙(三)記載のとおりであると認めることができ、原告がこの間月平均三日以上の事故欠勤をしていないことは明らかであり、また、昭和五〇年八月三一日までの間の原告の病欠等は被告の業務に起因する頸肩腕症候群兼疲労性腰痛症によるものと推認することができる。

そうすると、原告が頸肩腕症候群兼疲労性腰痛症に罹患していなければ、原告には前記昇給停止事由がなかったことになり、前記のとおり順次昇給し得たものと考えられるから、原告は、右疾病に罹患したことにより、昭和四八年四月一日から昭和五三年三月三一日までの間に現実に支給を受けた給与と昇給していたならば得べかりし給与との差額相当分の損害を蒙ったことになり、《証拠省略》によれば、右損害額は別紙(一)記載のとおり合計金一六四万二五九〇円であると認めることができる。したがって、被告が負担すべき損害額は右金員の五割に相当する金八二万一二九五円となる。

2  慰藉料

原告が発病当時二五歳の女性であったことは当事者間に争いがなく、約五年間にわたり頸肩腕症候群兼疲労性腰痛症のため、原告が個人生活上も職場生活上も種々の肉体的、精神的苦痛を蒙ったことは推察するに難くなく、右事実に、入通院期間、現在では回復していること、原告にも症状増悪の防止につき一半の責任のあること、被告がとった段階的職場復帰の措置など諸般の事情を総合すると、被告に負担させるべき原告の慰藉料は金四〇万円をもって相当と認める。

3  弁護士費用

原告が本訴提起にあたって訴訟に関する一切を原告代理人らに委任したことは当事者間に争いがなく、本件事案の難易度、本訴で認容される額、その他諸般の事情を総合して考えると、被告に負担させるべき弁護士費用は金一〇万円をもって相当と認める。

七  結論

そうすると、その余の点について判断するまでもなく、被告は原告に対し、前記六の1ないし3の合計金一三二万一二九五円及び内弁護士費用を除く金一二二万一二九五円に対する記録上明らかな本訴状送達の翌日の後である昭和五三年四月一日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。

よって、原告の本訴請求は、右金員の支払いを求める限度で正当であるから右の限度で認容し、その余の請求は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を各適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 上田次郎 裁判官 安斎隆 下山保男)

<以下省略>

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